日本のれきし1、飛鳥時代(武烈天皇~崇峻天皇)

 むかしあるところに武烈天皇(ぶれつてんのう)という天皇がいました。
武烈天皇には子どもがいませんでした。
武烈天皇がなくなると、豪族たちは、武烈天皇のすこしはなれた家系から継体天皇(けいたいてんのう)を天皇にむかえいれました。
継体天皇の孫に推古天皇(すいこてんのう)がいました。
推古天皇から持統天皇(じとうてんのう)までの時代、奈良県中部の飛鳥というところに皇居があったので、この時代を飛鳥時代とよびます。

 継体天皇のあと、3にんめの天皇の欽明天皇(きんめいてんのう)のころのおはなしです。
 ひとつは、それまでちからをもっていた大伴金村(おおとものかなむら)がヤマト政権の朝鮮半島へのちからをていかさせたとして地位をうしないました。
 もうひとつは、仏教がつたわりました。
朝鮮半島南部では加耶諸国が新羅にほろぼされ、百済と新羅のたいりつがはげしくなっていました。
百済の王は日本にたすけをもとめてきました。
このときに百済の王からもたらされたのが仏教です。
豪族の蘇我氏は日本に仏教をうけいれるべきだといいましたが、おなじく豪族の物部氏は仏教をうけいれるのにはんたいしました。
蘇我氏と物部氏のたいりつは欽明天皇、敏達天皇(びだつてんのう)、用明天皇(ようめいてんのう)の時代までつづきました。
用明天皇がなくなったあと、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)がべつべつの天皇をおしたてることで、さらにたいりつがはげしくなり、たたかいがおこります。
このたたかいでかった蘇我馬子は崇峻天皇(すしゅんてんのう)を天皇にしました。
仏教も日本にねづくようになりました。

 蘇我馬子のおかげで天皇になった崇峻天皇ですが、ちからは蘇我馬子にありました。
蘇我馬子は、こうしたじょうきょうにふまんをもらすようになった崇峻天皇をあんさつし、かわりに欽明天皇の娘であり、じぶんの姪でもある推古天皇をつぎの天皇にしました。
蘇我馬子がじぶんでたてた天皇をさつがいしたことは、天皇の地位をじぶんのすきにできるほどのじつりょくをもっていたことになります。

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