日本のれきし4、奈良時代(文武天皇~)

 持統天皇のつぎに天皇になったのは、持統天皇の孫の文武天皇(ぶんむてんのう)です。
文武天皇はまだわかかったため、持統天皇がたすけながらの即位でした。
これがはじめての「上皇」です。

 文武天皇の時代に大宝律令(たいほうりつりょう)ができました。
つくったのは皇族の刑部親王(おさかべしんのう)と、政府のちゅうしんにあった中臣鎌足の子の藤原不比等(ふじわらふひと)です。
中臣鎌足は死のぜんじつ、天智天皇から藤原の姓をあたえられていました。

 文武天皇のあとに天皇になったのは文武天皇の母、元明天皇です。
文武天皇がなくなったとき、のちの聖武天皇(しょうむてんのう)になる7さいの皇子がいましたが、幼少のため、彼が成人するまでの「中継ぎ」として文武天皇の母が天皇にたてられたのです。
政権のちゅうしんは藤原不比等でした。
 元明天皇の時代に、藤原京から平城京に遷都しました。
 『古事記』もかんせいしました。

 元明天皇がいんたいしようとしていたとき、のちの聖武天皇はまだわかかったため、元明天皇にひきつづいて元正天皇(げんしょうてんのう)がもうひとりの「中継ぎ」としてそくいしました。
元正天皇は元明天皇の娘、文武天皇の姉であり、母から娘に天皇がけいしょうされた唯一の例です。
政権の中心はひきつづき藤原不比等でした。
 このころ『日本書紀』がかんせいします。
 藤原不比等がなくなると、政界のリーダーは長屋王になります。

 聖武天皇が天皇に即位したときから平城京がけんりょくあらそいのぶたいになります。
 元正天皇からひきつづき長屋王が政権をにぎっていましたが、藤原不比等の子であった藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)のいわゆる「藤原四子(ふじわらしし)」が長屋王のから政権をうばいかえそうとしました。かれらは左大臣になった長屋王に謀反(むほん)のうたがいをかけてじさつにおいこみました。これを長屋王の変といいます。

 そのご藤原四子は、聖武天皇にとついでいた異母妹の光明氏(こうみょうし)を皇后(天皇の最上位の妻)にたて、実権をにぎることにせいこうしました。それまでは皇族の女性が皇后になるという伝統がありましたが、皇族以外がはじめて皇后になるということをさせたのです。
 ところが、てんねんとうというびょうきがはやって、藤原四子はぜいいんびょうししてしまいました。人々はこれを「長屋王の祟り」とうわさしました。

 そのつぎに政権をたんとうしたのは皇族しゅっしんの橘諸兄(たちばなのもろえ)です。橘諸兄は遣唐使からきこくしていた吉備真備(きびのまきび)と僧の玄昉(げんぼう)のほさををうけ政治をしました。
 いっぽう、藤原四子の三男であった藤原宇合の子、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は藤原四子のあと、じぶんの地位のひくさにふまんをもっていました。藤原広嗣は橘諸兄の政治をひはんし、牧野吉備や玄昉を政治からおろすことを聖武天皇にうったえ、だいきぼなはんらんをおこしました。はんらんはちんあつされ、藤原氏のせいりょくはさらにこうたいしました。

 聖武天皇はそうしたじょうきょうから人々のめをそらそうとし、自分も「安住の地」をもとめて、都を平城京から山背国の恭仁京(くにきょう)、摂津の難波宮、近江の紫香楽宮(しがらきのみや)とうつしました。しかし、よのなかのどうようはおさまらず、けっきょく、都は平城京にもどされました。

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