日本史の教科書1(更新世、縄文時代、弥生時代、古墳時代)

問1.日本列島はどのようにしてできたのか教えて下さい。

旧石器時代にあたる更新世、通称氷河時代は、海面が低いため、日本は大陸と地続きでしたが、気候の温暖化が始まり、いまから約1万年前に日本は大陸から切り離されて日本列島が形成されました。

問2.文字による日本の最初の記録を教えて下さい。

文字による日本の最初の記録は、中国の前漢王朝の歴史書である『漢書』地理志の倭です。日本は当時、倭と呼ばれていました。
続いて日本が中国の歴史書に登場するのは、『後漢書』東夷伝です。倭の奴国の王の使者が後漢の都に行き、後漢の光武帝から印綬を授かったことと、その50年後に倭国王の帥升(すいしょう)が生口(せいこう)160人を後漢の皇帝に献上したことなどが書かれていました。
次に日本が中国の歴史書に登場するのは、いわゆる中国の三国志の一部である魏志倭人伝です。日本の邪馬台国についての記述がありました。ここでは邪馬台国の卑弥呼が呪術を用いて国をおさめていたことなどが書かれています。卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り、魏の皇帝から親魏倭王という称号と金印、多数の銅鏡が送られました。卑弥呼の死後、男の王が立てられたものの安定せず、再び安定をもたらしたのは壱与(いよ)という女王でした。魏志倭人伝には邪馬台国への行き方も書いてありますが、その行程が近畿地方とも、九州地方とも読めるため、邪馬台国があった場所に様々な説が生まれ、古代史の謎の代表的存在となっています。
漢書地理志から後漢書東夷伝、そして魏志倭人伝とみていくと、弥生時代の中期から後期にかけて小さな国同士が徐々に統合し、強い権力を持つ王のもとにまとまったことがわかります。

問3.邪馬台国の後、ヤマト政権ができるまでを教えて下さい。

弥生時代の末期には、邪馬台国のような強い王権を持つ国家が登場し、その墓も巨大になっていきます。こうした巨大な墓は古墳と呼ばれるようになります。特に、大和地方を中心とした畿内に、鍵穴のような形をもつ前方後円墳がつくられ始めます。この時代が弥生時代の末期と重なる古墳時代の最初の時期にあたります。
邪馬台国以後、しばらく中国の歴史書に日本のことが書かれていないため、詳細はわかっていません。ただし、大和地方を中心に前方後円墳が増加し、規模が大きなものも増えてきたこと、地方にも同じような前方後円墳が見られるようになったことなどから、畿内を中心に、大和地方の王である大王を盟主としたヤマト政権という連合体が成立し、東西にその影響力を及ぼすようになったと推測されています。

問4ヤマト政権と中国との関係を教えて下さい。

日本が古墳時代の前期から中期にさしかっかっていた頃、中国は分裂状態にありました。朝鮮半島を支配していた中国の支配力が一歩後退したため、朝鮮半島の国々に自立の動きがみられ、まとまった国家が成立するようになったのです。それらは高句麗、百済、新羅、加耶諸国(かやしょこく)です。
北方の高句麗は南下策をとっており、百済やその南の加耶諸国が高句麗によって圧迫されると、加耶諸国から供給されていた鉄資源の供給が途絶える恐れがあるヤマト政権は、百済や加耶諸国とともに高句麗と戦うようになりました。日本が朝鮮半島に出兵したことを示すものとして、高句麗の交代王碑という石碑の碑文があります。

問5.ヤマト政権の支配が進み、雄略天皇があらわれるまでを教えて下さい。

中国南朝の歴史書宋書倭人伝によると、ヤマト政権の時代が進むと倭の五王といわれる讃・珍・済・興・武の5人の大王たちが登場します。倭の五王たちは中国の南朝の国々に次々と使者を送り、貢物を送るとともに臣下の礼をとりました。この時代の中国は、分裂状態から南北ごとにまとまった国家を成立させていたので、日本は、南朝の国に使いを送って称号や地位をもらい、同じように中国に使いを送っていた朝鮮半島の国々よりも高い地位を占めることで、外交や軍事を優位に進めようとしました。
この倭の五王のうち、最後の武王が、古墳時代に最も有名な大王である雄略天皇と考えられています。日本国内でも埼玉県と熊本県にカケタケルという雄略天皇の名を示す文章が彫り込まれた鉄剣と鉄刀が出土しており、雄略天皇が率いたヤマト政権の勢力が関東から九州にまで及んだことがわかります。

問6.蘇我氏について教えて下さい。

ヤマト政権は、従えた豪族の統治に氏姓制度を用いました。豪族たちの氏といわれた血縁関係を中心にするグループに、姓(かばね)といわれるその豪族の地位や政権内の立ち位置をしめす称号を与えて統治したことが特徴的です。
たとえば、大和盆地の南のほうの有力豪族の一族の蘇我氏などがいます。


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