日本史の教科書2(飛鳥時代、奈良時代)

問1.飛鳥時代の天皇は誰から始まるか、教えて下さい。

 推古天皇(すいこてんのう)の頃から持統天皇(じとうてんのう)まで、おおむね奈良県中部の飛鳥の地に皇居がおかれたため、この時代を飛鳥時代と呼びます。多くの教科書では推古天皇の少し前、推古天皇の祖父にあたる継体天皇(けいたいてんのう)から飛鳥の章が始まります。
 というのも、先代の天皇に子がいなかったことから、豪族たちは王統の断絶を防ごうとして、少し離れた家系から椎体天皇を天皇に迎え入れたため、皇位継承の区切りがここでつくからです。

問2.仏教は誰がもたらしたか、教えて下さい。

 継体天皇の後、2代の天皇を挟んで欽明天皇(きんめいてんのう)が即位した頃、2つの大きな変化が訪れます。
 1つは、それまで最有力の豪族だった大伴金村(おおとものかなむら)が、「朝鮮半島におけるヤマト政権の影響力低下の原因をつくった」と非難されて失脚したことです。
 もう1つは、仏教の伝来です。朝鮮半島南部では、加耶諸国が新羅に滅ぼされ、百済と新羅の対立が激化していました。そこで、百済の王は日本と関係を深め、新羅との戦いを有利に進めようとしたのです。この中で百済の王からもたらされた文物の1つが、仏教でした。仏教を受け入れるかどうか、大伴氏に代わって二大勢力となった蘇我氏と物部氏が対立します。財政を担当し、渡来人とも関係が深い蘇我氏は、仏教を受け入れるべきだと考え、軍事を担当していた物部氏は仏教を排除する側に回りました。
 深まっていく蘇我氏と物部氏の対立関係は、欽明天皇の死後の敏達天皇(びだつてんのう)、用明天皇(ようめいてんのう)の時代に持ちこされます。用明天皇の死後、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が別々の皇位継承者をおしたてると対立は頂点に達し、軍事衝突に至ります。これに勝利した蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、自らがおしたてた崇峻天皇(すしゅんてんのう)を即位させます。この戦いにおいて、仏教を受け入れようとした蘇我氏が勝利したことで、仏教が本格的に日本に根付くことになりました。

問3.蘇我馬子について教えて下さい。

 蘇我馬子のおかげで天皇になった崇峻天皇ですが、実権は蘇我馬子にあり、崇峻天皇は力をふるえませんでした。蘇我馬子はこうした状況に不満を漏らすようになった崇峻天皇を暗殺し、代わりに欽明天皇の娘であり、自身の姪でもある推古天皇を次の天皇にたてました。蘇我馬子が自らたてた天皇を殺害したことは、天皇の地位をも左右できるほどの実力を持っていたことを示しています。

問4.推古天皇について教えて下さい。

 初の女性の天皇になった推古天皇は、自身の甥にあたる厩戸王(うまやとおう、聖徳太子)に補佐をさせ、叔父にあたる蘇我馬子と協力しながら政治を行うという3人の協力体制のもとで政治を運営します。
 推古天皇や厩戸王は、豪族たちのなわばり争いの場であった政治を、王権のもとに安定させるため、国の運営を豪族組織から「官僚」組織に近づけるための2つの政策を行いました。それが「官位十二階」と「憲法十七条」です。
 また、推古天皇時代の外交では、遣隋使の派遣が行われます。この頃、中国では新しく隋王朝が成立していました。朝廷は遣隋使を派遣して中国の政治や文化を学ばせ、隋と関係を深めることで、朝鮮半島の国々に対する立場を優位にしようとしていたのです。
 初回の遣隋使は不調に終わりますが、2回目の遣隋使では小野妹子が派遣され、国交を結ぶ交渉が行われました。この外交は、それまでの「倭の五王」の外交体制と異なり、隋の皇帝に臣下として従属しない方針だったため、当初、無礼であると隋の皇帝、煬帝(ようだい)の怒りを買いました。煬帝は「中国史上最大の暴君」といわれることのある人物で、彼を怒らせるとは日本もなかなか危ない橋を渡ったものですが、隋は朝鮮半島の高句麗に遠征しようとしており、「日本との不要な関係悪化は得策ではない」と考え、国交を結ぶことを認め、返事の使者を日本に送っています。

問5.推古天皇の死後即位した、舒明天皇(じょめいてんのう)について教えて下さい。

 隋は短命に終わった王朝で、推古天皇の在位中に滅亡しました。かわりに成立した唐王朝に対し、推古天皇の死後即位した舒明天皇は初の遣唐使を派遣し、中国との関係を継続しています。
 唐に渡った代表的な留学生や留学僧としては、奈良時代には聖武天皇から重く用いられた吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)、平安時代には仏教を学び、日本で新しい宗派をひらいた最澄や空海などがおり、唐の先進的な制度や文化を日本にもたらすという重要な役割を果たしました。

問6.舒明天皇の次に天皇にたった、女性の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代について教えて下さい。

 推古天皇の死去の前に、すでに厩戸王や蘇我馬子は相次いで亡くなっており、政治の実権を蘇我馬子の子だった蘇我蝦夷(そがのえみし)、次いで蘇我馬子の孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が握るようになります。蘇我入鹿はライバルだった厩戸王の子、山背大兄王を滅ぼし、蘇我氏による政治を押し進めます。厩戸王らの改革は「豪族から官僚へ」という方向を模索していましたが、蘇我蝦夷、入鹿の時代に再び豪族中心の政治に戻っていったのです。
 一方、皇極天皇の子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)とその腹心の中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、隋や唐から戻ってきた留学生や留学僧から中国が律令制度にもとづく協力な国家づくりを行っていることを学んでいました。そのため彼らは豪族政治を続けようとする蘇我氏を倒し、王族を中心とした新しい国づくりを進めたいと考えるようになります。こうして起きたクーデターが乙巳の変(いっしのへん)です。中大兄皇子と中臣鎌足らが皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を殺害し、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだのです。
 蘇我入鹿の殺害後、皇極天皇は弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に位を譲ります。そして、皇太子の地位についた中大兄皇子と、内臣という地位に就いた中臣鎌足を中心に政治改革が進められます。彼らによる一連の政治改革を「大化の改新」といいます。このとき、中国にならって元号が制定されました。ここで制定された「大化」という元号が日本の元号の始まりです。

問7.孝徳天皇について教えて下さい。

 孝徳天皇は実権を握る中大兄皇子と対立したため、中大兄皇子は難波の都をひき払い、飛鳥に移ります。家臣の大半は中大兄皇子に従い、孝徳天皇は難波に取り残された格好となり、そこで亡くなります。
 孝徳天皇の死によって皇極天皇が再び天皇になりました。これが斉明天皇(さいめいてんのう)です。皇太子だった中大兄皇子がすぐに天皇にならなかったのは、クーデターを起こし、豪族から土地を取り上げるという政策を打ち出した中大兄皇子には政敵が多く、天皇になると自身に不満が集中するかもしれないと考え、母だった皇極天皇に「肩代わり」してもらったという説が有力です。

問8.中大兄皇子が天智天皇になるまでを教えて下さい。

 朝鮮半島では、新羅が中国の唐と結び、急速に勢力を増大していました。唐と新羅の遠征軍は百済に出兵し、日本と友好関係にあった百済も滅ぼしてしまいました。滅ぼされた百済の旧家臣たちは、日本に百済復活のための遠征軍派遣を要請します。すでに加耶諸国は新羅と百済による朝鮮半島南部の争奪戦の中で滅びており、加耶諸国が滅ぼされた上に、百済が滅びてしまうと日本の朝鮮半島への足がかりが失われてしまうため、斉明天皇と中大兄皇子は百済救済の遠征軍を派遣することにしたのです。
 百済救済の遠征の途上、斉明天皇が亡くなり、中大兄皇子は正式に即位せぬまま、唐・新羅との戦争の指揮を行うことになります。遠征軍は白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍と戦いますが、大敗を喫します。
中大兄皇子は、日本も百済や高句麗のように唐・新羅の連合軍に攻め滅ばされるのではないかと恐れ、防衛を固めることに専念しました。
 中大兄皇子は琵琶湖のほとりの大津宮に遷都し、ようやく天皇に即位します。これが天智天皇(てんちてんのう)です。

問9.大海人皇子が天武天皇(てんむてんのう)になるまでを教えて下さい。

 天智天皇の時代は4年間で終わりますが、その死が新たな対立を生みました。それが、天智天皇の子の大伴皇子(おおとものみこ)と、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の対立です。
 天智天皇は、はじめ弟の大海人皇子を後継者にしていましたが、晩年には子の大友皇子に皇位を譲ろうという意向を見せていました。大海人皇子は兄の意向に沿う形で、天智天皇が生きている間は吉野に退いて皇位への意欲を見せないようにしていましたが、天智天皇の死によって大友皇子との対立があらわになると、吉野を抜け出して挙兵します。これが、古代朝廷における最大の継承争いとされる壬申の乱です。大海人皇子はいったん東に向かい、地方豪族の協力により兵を集めて大津宮の大友皇子を倒して飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。

問10.天武天皇のしたことを教えて下さい。

 天武天皇は、武力で大友皇子を破って天皇になりました。壬申の乱で大友皇子についた豪族たちを一掃したのち、味方についた豪族たちの上にたって天皇になったため、「オール与党」状態で、天皇に強大な権力を集中することができました。
 天武天皇のときに、これまで「大王」といわれていた統治者の呼び名が正式に「天皇」と呼ばれるようになりました。
 また、それまでは天皇ごとに「なんとかの宮」という皇居の場所が変わり「遷都」が行われることが多かったのですが、天武天皇は新たな都である藤原京の造営に取り組み、天皇が変わっても政治の中心を動かさないようにしました。
 天武天皇が亡くなったあとに天皇に即位したのが、皇后であった持統天皇(じとうてんのう)です。

問11.持統天皇について教えて下さい。

 天武天皇は持統天皇が病にかかったときには薬師寺を建立し、病気の治癒をいのりました。天武天皇と深いつながりがあった持統天皇は、天武天皇がやり残した事業を継ぎ、発展させます。夫の業績を妻が継いだのです。持統天皇が藤原京への遷都を行いました。
持統天皇が政治を行ったいた頃、すでに子の草壁皇子は亡くなっていたため、持統天皇の次に孫の文武天皇(もんむてんのう)が即位することになりました。持統天皇が位を譲ったときに、文武天皇は15歳と年少だったため、持統天皇は天皇を退いた「太上天皇」として文武天皇の補佐を行いました。これが初の「上皇」です。

問12.文武天皇について教えて下さい。

 文武天皇の時代の、朝廷の最大の業績は大宝律令です。大宝律令は「律」と「令」を両方揃えた日本初の法令となりました。大宝律令作成にあったったのは皇族の刑部親王と、政府の中心にあった中臣鎌足の子の藤原不比等です。中臣鎌足は死の前日、天智天皇から藤原の姓を与えられていました。
 文武天皇のあとに天皇になったのは文武天皇の母、元明天皇(げんめいてんのう)です。文武天皇が亡くなったとき、のちの聖武天皇になる7歳の息子がいましたが、幼少のため、彼が成人するまでの「中継ぎ」として文武天皇の母が天皇にたてられたのです。この時代、文武天皇の時代から引き続き、藤原不比等が政権の中心にありました。

問13.元明天皇について教えて下さい。

 元明天皇が即位した翌年、喜ばしい知らせが入ります。武蔵国で純度の高い銅が発見されたのです。このことを記念して年号が和同と改められ、和同開珎という貨幣がつくられています。しかしながら、まだ貨幣の使用という習慣がなく、稲や布などを貨幣の代わりにして、モノどうしのやり取りで経済が回っている世の中に貨幣を流通させるのは至難の業でした。
 元明天皇の時代に、藤原京から平城京への遷都という、大規模な遷都が行われました。この平城京の遷都から長岡京や平安京へ遷都されるまでの時代を奈良時代といいます。
 また、歴史書の編纂事業の1つである、日本の神話や伝承、天皇たちの物語をまとめた『古事記』が完成しています。
 元明天皇が引退しようと考えていたとき、のちの聖武天皇はまだ若かったため、元明天皇に続いて元正天皇(げんしょうてんのう)がもうひとりの「中継ぎ」として即位します。

問14.元正天皇について教えて下さい。

 元正天皇は元明天皇の娘であり、文武天皇の姉であり、母から娘に天皇が継承された唯一の例です。文武天皇が若くして亡くなったことにより、元明天皇、元正天皇という女性の「中継ぎ」天皇を2人挟みましたが、いよいよ成人すると聖武天皇(しょうむてんのう)が天皇に即位しました。政界の中心は藤原不比等でした。藤原不比等が亡くなると、政界のリーダーは皇族の長屋王(ながやおう)になります。
 この頃、『古事記』に続くもう1つの歴史書、『日本書紀』が完成します。

問15.藤原不比等について教えて下さい。

 藤原不比等は、文武天皇の時代の政府の中心にあった中臣鎌足の子です。元明天皇の時代、文武天皇の時代から引き続き、藤原不比等が政権の中心にありました。元正天皇の時代も、藤原不比等が政権の中心にいました。

問16.聖武天皇の治世について教えて下さい。

 聖武天皇のときから平城京が権力闘争の舞台になります。
 元正天皇から引き続き長屋王が政権を握っていましたが、藤原不比等の子であった「藤原四子」が長屋王の手から政権を奪い返すべく、策謀をめぐらせたのです。彼らは左大臣の位に上った長屋王に謀反の疑いをかけて自殺に追い込みました。これを長屋王の変といいます。
 長屋王を排除した藤原四子は、聖武天皇に嫁いでいた異母妹の光明子(こうみょうし)を皇后(天皇の最上位の妻)にたて、実権を握ることに成功しました。それまでは皇族の女性が皇后になるという伝統がありましたが、皇族以外がはじめて皇后になるという前例をつくったのです。ところが、全国的に天然痘という病気が広まってしまい、藤原四子は全員相次いで病死してしまったのです。人々はこれを「長屋王の祟り」と噂しました。
 その次に政権を担当したのは皇族出身の橘諸兄(たちばなのうえ)です。
 聖武天皇が退位して、娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位しても、聖武天皇がしばらく上皇として政務を助けました。奈良の大仏はこのころ完成したものです。大仏の完成の4年後に聖武天皇が亡くなり、翌年に橘諸兄が亡くなると、朝廷は再び権力闘争の場となってしまいます。

問17.孝謙天皇について教えて下さい。

 孝謙天皇の母の光明子は、藤原氏の出身です。聖武天皇の死後、天皇の母として影響力を増した光明子は甥の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を重く用いるようになります。藤原氏の勢力の拡大に対し、橘諸兄の子、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は藤原仲麻呂に対立する大友氏などの協力を得て藤原仲麻呂打倒の兵をあげようとしたのですが、計画が事前に漏れ、厳しい取り調べの末に殺されてしまいます。この橘奈良麻呂の変ののち、藤原仲麻呂は独裁的な権力を獲得し、あらたに淳仁天皇(じゅんにんてんのう)をおし立てて天皇とします。

問18.淳仁天皇について教えて下さい。

 淳仁天皇は天武天皇の孫でしたが、皇族の中であまり目立った存在ではなく、藤原仲麻呂のおかげで天皇になることができたため、実際の権力は藤原仲麻呂にありました。権力を思うままにふるうことができた藤原仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」という名をもらい、太政大臣の位にのぼり、権力を独占しました。しかし、恵美押勝を支援していた光明子が亡くなると、貴族社会の中で急速に孤立を深めました。
 一方、天皇の位を譲った孝謙上皇は、病気の際に自分の看病にあたった僧の道鏡(どうきょう)を寵愛するようになります(「恋仲」だった、ともいわれます)。孤立を深めていく恵美押勝と、恵美押勝の後押しを受けている淳仁天皇の権威が低下していく一方、孝謙上皇と道鏡は権威を高めつつあり、この両者の対立は深まっていきました。
 先に動こうとしたのは恵美押勝です。同郷の排除を訴えて挙兵したのです。しかし、孝謙上皇側が迅速に兵を動かし、恵美押勝軍を破り、乱戦の中で恵美押勝は殺されてしまいます。淳仁天皇は天皇から降ろされて淡路島に流されてしまいました。
 この恵美押勝の乱に勝利した孝謙上皇は再び天皇に即位し、称徳天皇(しょうとくてんのう)となりました。当然、権力をふるうことになるのは僧の道鏡です。

問19.道鏡について教えて下さい。

 称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は天皇の信任をもとに太政大臣禅師、その次に法王と、政界のトップと仏教界のトップにのぼりつめることになりました。道鏡の弟や一族の者、弟子の僧なども高い位につきます。大寺社の造営なども行われ、仏教と政治が密接に結びついた時代でもありました。
 こうした中、ある1つの事件が起こります。大宰府からもたらされた使いが、豊前国の宇佐八幡宮において「道鏡を天皇にすれば世の中はおさまる」という神のお告げがあったと報告したのです。
 宇佐八幡宮は朝廷と関係が深く、そのお告げには一定の権威がありました。称徳天皇には、「愛する道鏡に天皇の位を与えたい」といういこうがあったものの、藤原氏など、道鏡に反対する勢力も多かったため、もう一度宇佐八幡宮に行き、神の意志をたしかめようということになりました。
 その使者となったのが、和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物です。彼は、都に戻ると、「皇室以外のものが天皇になったことはなく、天皇には必ず皇族をたてるべき」という報告を行い、道鏡の天皇即位に反対したのです。愛する道鏡の即位を反対され、怒った称徳天皇は和気清麻呂を流罪にします。ただし、この報告によって道鏡の天皇即位が頓挫したので「痛み分け」の形になりました。この「宇佐八幡神託事件」の翌年に称徳天皇が亡くなると、天皇の寵愛こそが権力のもとであった道鏡の立場は急速に悪化し、下野国の薬師寺に追放されました。

問20.皇族の家系について教えて下さい。

 結果的に称徳天皇は独身のまま過ごし、後継者も定めていなっかったため、藤原百川(ふじかわももかわ)らの協議により、それまで続いていた天武天皇の家系に代わって天智天皇の孫である光仁天皇(こうじんてんのう)が即位し、奈良時代最後の天皇となります。






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