日本のれきし2、飛鳥時代(推古天皇~斉明天皇)

 はじめての女性の天皇になった推古天皇は、甥の厩戸王(うまやおう、聖徳太子)と叔父の蘇我馬子と3人で政治をしました。
 推古天皇と厩戸王は、豪族たちのなわばりあらそいのばであった政治を、王のちからのもとにあんていさせるための政策をおこないました。
それが「冠位十二階」と「憲法十七条」です。
 また、推古天皇は中国の隋に遣隋使をおくりました。
隋とかんけいをふかめることで、朝鮮半島の国々にたいするたちばをゆういにしようとかんがえたのです。

 推古天皇のあと天皇になった舒明天皇(じょめいてんのう)の時代には、隋はなくなり唐の時代になっていました。
舒明天皇は遣唐使をおくり中国とのかんけいをけいぞくしていました。
遣唐使には、日本で仏教をひらいた最澄や空海がおり、唐のあたらしい制度や文化を日本にもたらしました。

 舒明天皇のつぎに天皇になった、女性の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代のおはなしです。
 すでに厩戸王や蘇我馬子はなくなり、蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(しがのえみし)、蘇我馬子の孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が政治をおこなったいました。
蘇我入鹿は、ライバルだった厩戸王の子である山背兄皇子をほろぼし、蘇我氏による政治をしていました。
厩戸王の「豪族から官僚へ」の政治から、蘇我蝦夷、入鹿の時代にはふたたび豪族中心の政治にもどっていったのです。
 いっぽう、皇極天皇の子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)とそのふくしんの中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、隋や唐からもどってきた留学生や留学僧から、中国が律令制度にもとづくつよい国づくりをおこなっていることをまなんでいました。
そのため中大兄皇子と中臣鎌足は、豪族政治をつづけようとする蘇我氏をたおし、王族をちゅうしんとしたあたらしい国づくりをすすめたいとかんがえるようになります。
こうしておきたクーデターが「乙巳の変(いっしのへん)」です。
中大兄皇子と中臣鎌足らが皇極天皇のめのまえで蘇我入鹿をさつがいし、蘇我蝦夷をじさつにおいこんだのです。
蘇我入鹿のさつがいご、皇極天皇は弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に位をゆずります。
そして皇太子の地位についた中大兄皇子と、内臣という地位についた中臣鎌足をちゅうしんに政治改革がすすめられます。
 かれらによるいちれんの政治改革を「大化の改新」といいます。
このとき中国にならってげんごうがせいていされました。
ここでせいていされた「大化」というげんごうが日本のげんごうのはじまりです。

 そののち、孝徳天皇はじっけんをにぎる中大兄皇子とたいりつしたため、中大兄皇子は難波のみやこをひきはらい飛鳥にうつります。
家臣のたいはんは中大兄皇子にしたがい、孝徳天皇は難波にとりのこされ、そこでなくなりました。

 孝徳天皇がなくなることで皇極天皇がふたたび天皇になります。
これが斉明天皇(さいめいてんのう)です。
 皇太子だった中大兄皇子がすぐに天皇にならなかったのは、クーデターをおこし、豪族から土地をとりあげるという政策をうちだした中大兄皇子には敵がおおく、天皇になると自分にふまんがしゅうちゅうするかもしれないとかんがえ、母だった皇極天皇に「かたがわり」してもらった、というせつがゆうりょくです。

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